アートと音楽

東京都立現代美術館の企画展にいってきた。

タイトルは「アートと音楽ー新たな共感覚をもとめて」、坂本龍一監修でアートと音楽の領域を横断しているような作品が10数点展示してあった。これはっ、と思ったのがカンディンスキーの絵画だった。音が群れをなして空間を埋めているイメージと耳にしたときの感情の錯綜を思い出した。絵画がスタティクなものだからこそ、よけいに騒がしい気持ちになった、絵画を見ていると音が鳴っているより五月蝿い感覚になった。ほとんどのインスタレーションが音光映像をミックスしたもので、まぁ見た目かっこいいんだけど音楽の感動がないなという印象だった。僕の思う音楽の感動は、音の鳴り始めと鳴り終わりの期待高揚感安堵感だ・音が鳴るその瞬間の様子、指揮者がタクトを振るとか、ものとものがブツかるとか、物理的に音が飛びだすその様子があらわになっていることがすごく重要。そんなかで、なんで絵画に引かれたのか、終わりも始まりもないし微動だにしないものに、より音楽的なシンパシーを感じたのか不思議だった。あとは、1970年代の日本で作られた、《言語楽器(パロールシンガー)》。田中未知と高松次郎という人が作った、変なオルガン。キーボードがタイプライターのキーになっていて、その文字に対応した音が鳴って、ボディーについてる「あかさたな」の電光掲示板が光るというもの。これを使って、寺山修司谷川俊太郎が詩を朗読?したらしい。とってもおちゃめでお馬鹿でいい。手記のようなものに「新しい音楽をかなでるものとして未来をひらくか、美術として「ナンセンス機械」として博物館に入れられるか」というようなことを書いていた。たぶんこの機械は冗談だったとおもう、というのもこんなアイディアは20世紀に入る頃にはとっくに考えられていて、今更作ってどうするのぐらいのものだったはず。お客をからかっているのか、大まじめでおいてるのか僕には判断つかなかったけれど、この機械のメッセージは音楽となにかの共感覚をもとめるなんて容易なことじゃないのよってことなのかな。まぁ不細工なオルガンで、音を鳴らしたらただがっくりするだけだとおもうけど、鳴っていないとわくわくできるから不思議なんですよね。坂本龍一インスタレーションは正直がっかりでした、スペクタクルマッチョの極み。だから?ってかんじです、アートではないおもいました。