日記

近所のおばあさん(1928年)が話してくれたこと。

上土にはゲンちゃんというちょっと頭の弱い男の子がいた。ゲンちゃんの日課は通りのごみひらいで皆にかわいがられていた。しかしかわいそうに、伊勢湾台風(1959年)の洪水で流されて死んでしまったそう。

 

近所のおばあさんたちは、伊勢湾台風のエピソードをよく話してくれる。60年も前のことだがよっぽど印象的だったに違いない。上土の南で川が溢れたのではなく、北側から大水が流れてきたそう。信州大学のほうから駅に向かって水が流れる様子を想像すると、不謹慎だが迫力がある。頭に描く洪水は水が透明になりがちなので、なお幻想的だ。あるおばあさんの話では、その大水に乗って、ウナギが大量に流れてきて自分の家の庭の池がたいそうにぎやかになった、という笑い話だっり。方や、通りの名物人が流されて死んでしまうというような、悲しい物語であったり。みんな昨日のことのように話してくれる、60年を経て磨き抜かれた持ちネタみたいになっているようだ。昨年10月の台風では、女鳥羽川もあわや氾濫かというところまで来て、肝を冷やした。普段の透明で静かな川の流れを見ていると、あれは濁流と水量と恐怖感は何だったんだろうと記憶が遠くなる。

 

通りの名物人みたいな人は、ちばてつやとか白戸三平の漫画にはよく出てくる記憶がある。まちのひとにいじめられたり、構われたりしている、ひょうきんなキャラクター。昭和の終わりくらいまでは、現実の世界にも、僕が住んでいた天王寺にもそういう人はいた。ケンタロウと名乗る浮浪者は、当時住んでた寺によく物乞いに来ていた。インターホンで「ケンタロウです」と名乗られると祖父や祖母に伝えた。祖父はケンタロウに小銭を渡していた、そのようすを僕もおっかなびっくりとみていた。いつからか彼は来なくなった。構う人、がいなくなって、そういう人もいなくなったのかもしれない。

住まいについて 1

今までどのような場所に住んできたかを記す。

1982年、僕が生まれた場所は天王寺区城南寺町のアショカビハーラという、マウリヤ朝の王様のような名前のアパート、父と母が結婚間も無く住んでいた1975年築の現存するアパート。僕はその様子を覚えていないが、父と母の会話の中に時折でてくる。次に、1983年か84年地下鉄谷町線谷町九丁目駅からほど近い谷町グランドハイツへ引っ越し。僕が天王寺幼稚園に通っている時はここに住んでいた。間取りも近所のこともなんとなく覚えている。近くにチコマートという小さいスーパー、ビルの谷間でおっちゃんが焼いているたこ焼き屋台、よく通ったうどん屋などがあった。天王寺幼稚園へは、祖父が住職を務めていた曹洞宗齢延寺の近くに停車する幼稚園バスに乗って通っていた。帰りもバスに乗り停車場で祖母に迎えられ、両親が帰ってくるまでお寺で過ごして皆で晩御飯を食べ、グランドハイツに帰った。帝塚山小学校へ入学する1988年ごろ、いとこが住んでいた近鉄本町駅真上のハイハイタウンに引っ越し。その頃も電車で通学して帰ってきたらお寺で過ごす生活が続いた。確か、中学生のころ祖父が住職を辞して寺内の西野離れへ引っ越した。ハイハイタウンは1999年に生玉寺町の現実家ルイシャトレ夕陽ヶ丘へ引っ越すまで、大阪で一番長く住んでいた場所となった。僕はルイシャトレには高3と浪人の2年間を過ごしたはず。その後、信州大学に入学し、2001年は深志高校の北側の古いアパート深江荘で1年。2階建で各階に3戸づつ、築年は当時で4〜50年はいってたに違いない。部屋は、6畳と台所3畳、日当たり悪しトイレあり風呂なし。隣に、もっくんとこばが住んでいたので、小さいくてボロいけど楽しい我が家の1年間だった。風呂は近所のばらの湯や、チロの家で貰い湯していた。大学のすぐ東側の旭コーポに6年、ここも学部時代のほとんどを過ごした思い出深いアパート、キッチン2畳と居室6畳。風呂トイレは風呂桶を正方形にしてかろうじてセパレート、ほとんどシャワーで正方形の風呂に浸かった記憶がない。浅間温泉が近かったので原付に乗って熱い港の湯へ通った。元町のセイユーの東側の蟹甲羅荘に4年、長野市のアパートに6ヶ月、善光寺門前の戸建てに6ヶ月、そして今の上土の戸建てに7年住んでいる。


日記

いつものニコニコレンタカーでヴィッツを借りて、今井→穂高ヤマダ電機→浅間温泉とルートはあまり考えずにドライブ。

山形村の畑から朦々と砂が舞っているのが見える。春の近所迷惑な風物詩。午後から雨になるらしいが、日差しが強く車内が熱い。

 

今井の道の駅は地元の人で賑わっていた。外の売り場は春掘りの長芋が箱に入って山積み。中の売り場は、春菊、キャベツ、山菜など春っぽい野菜がたくさん並んでいて爽やか。りんごもまだある。天ぷら用に春菊とふきのとうを、贈答用に長芋を購入。ラップで包んだ味噌焼きおにぎりは、さっき握って来たところなのか暖かくて味噌のいい香りがしたので買ってしまった。

 

サラダ街道を通って、梓川熱田神宮を参拝しふるさと公園に寄ってバーベキュースペースを見学。桜がたくさん植えてあるがまだまだ咲く気配はない、山の辺りは4月の中旬ごろか。

 

安曇野ハーブスクエアでハーブティーを購入。タンドリーチキンスパイスを買い忘れた。その後、下元と前に行った双葉で蕎麦を食べた。蕎麦も美味いが、こんにゃく刺身が絶品。こんやにゃくの臭みが全くしない、心太とか本葛とか上質な澱粉菓子のような食感と旨味。鴨南蛮とソースカツ丼もよかった。蕎麦屋というより料理上手な店だと思う。蕎麦も美味い、薬味にもこだわりを感じるし甘めのつゆが好ましい。松本市内で味と価格でここと勝負できる店はないと思う、天ざる2000円とか舐めてる。

 

 

 

 

日記

新型コロナウイルス感染の影響で町の活力が失われて1ヶ月ほど経った。昨夜コクトーズへ向かう道すがら、目に入る飲食店にはそれなりに人が入っている様子だった。騒ぎが始まって以来、馴染みのお店にはいつもより顔を出すようにしている。流石にいつまでも閉じこもっていられない、今は引きこもって困難をみんなで乗り越えようという日本人に有りがちな逆向きの頑張りが事を深刻にしているようにおもう。長野県は今日4人目の感染者についてプレスリリースを行った。それよりも以前に感染した人は無事快方したのだろうか。おそらく相当数の人が既に感染しているに違いない。

 

世の中全体がシケ状態になったことを肌で感じたのは2011年以来だが、あの頃は自分の住処が無事だったせいでどこか他人の事のような感じだった。募金や災害支援をするなど気持ちを向ける先があったが、今は何をすればいいのかさっぱり分からない。労働者としての枠組みの中でも、この状況を好転させる職権もすべもない。

 

昨夜19:30のコクトーズは満席で20名ほどが食事を楽しんでいた。ウェイターの斎藤さんがいうには昼にはほとんど予約がなかったが、夜はあれよという間に一杯になったそう。安心したような笑顔で飲み物を準備してくれた。厨房では小学校もバスケットも休みになったリンタロウ君が洗い場を一人で仕切っていて頼もしい。カンパリ、フランスの赤ワインサラミ、生ハム、トリッパ、ミネストローネ、厚切りポークのロースト、ペペロンチーノ、ティラミス、コーヒーで締め。トリッパはよく煮込まれていてトマトの甘さと黒胡椒の辛味が絶妙だった。吉成さんは髭が白くなっていた。ビー研のボックスで出会ってからもう19年が経った、7年上の先輩だった。

 

帰り道、それなりに人が出ていてあてのある客待ちのタクシーがクラブの周りでジグザグとハザードを炊いていた。

 

下の弟が転職するらしく、身元保証人にサインしてくれと言われたので、した。信州に縁の深い会社のようだ。

真ん中の弟の会社がマザースに上場した。弟の勤め先といのもさることながら、新日本プロレスの親会社でもあるため感慨深い。