住まいについて 1

今までどのような場所に住んできたかを記す。

1982年、僕が生まれた場所は天王寺区城南寺町のアショカビハーラという、マウリヤ朝の王様のような名前のアパート、父と母が結婚間も無く住んでいた1975年築の現存するアパート。僕はその様子を覚えていないが、父と母の会話の中に時折でてくる。次に、1983年か84年地下鉄谷町線谷町九丁目駅からほど近い谷町グランドハイツへ引っ越し。僕が天王寺幼稚園に通っている時はここに住んでいた。間取りも近所のこともなんとなく覚えている。近くにチコマートという小さいスーパー、ビルの谷間でおっちゃんが焼いているたこ焼き屋台、よく通ったうどん屋などがあった。天王寺幼稚園へは、祖父が住職を務めていた曹洞宗齢延寺の近くに停車する幼稚園バスに乗って通っていた。帰りもバスに乗り停車場で祖母に迎えられ、両親が帰ってくるまでお寺で過ごして皆で晩御飯を食べ、グランドハイツに帰った。帝塚山小学校へ入学する1988年ごろ、いとこが住んでいた近鉄本町駅真上のハイハイタウンに引っ越し。その頃も電車で通学して帰ってきたらお寺で過ごす生活が続いた。確か、中学生のころ祖父が住職を辞して寺内の西野離れへ引っ越した。ハイハイタウンは1999年に生玉寺町の現実家ルイシャトレ夕陽ヶ丘へ引っ越すまで、大阪で一番長く住んでいた場所となった。僕はルイシャトレには高3と浪人の2年間を過ごしたはず。その後、信州大学に入学し、2001年は深志高校の北側の古いアパート深江荘で1年。2階建で各階に3戸づつ、築年は当時で4〜50年はいってたに違いない。部屋は、6畳と台所3畳、日当たり悪しトイレあり風呂なし。隣に、もっくんとこばが住んでいたので、小さいくてボロいけど楽しい我が家の1年間だった。風呂は近所のばらの湯や、チロの家で貰い湯していた。大学のすぐ東側の旭コーポに6年、ここも学部時代のほとんどを過ごした思い出深いアパート、キッチン2畳と居室6畳。風呂トイレは風呂桶を正方形にしてかろうじてセパレート、ほとんどシャワーで正方形の風呂に浸かった記憶がない。浅間温泉が近かったので原付に乗って熱い港の湯へ通った。元町のセイユーの東側の蟹甲羅荘に4年、長野市のアパートに6ヶ月、善光寺門前の戸建てに6ヶ月、そして今の上土の戸建てに7年住んでいる。