何を書けばいいか

来年はテーマを決めて書いていくことにします。もうじき来年ですね、セイユーで買った牛乳の賞味期限は2010.01.03でした。今日恋人と浅間温泉に向かう途中に偶然見つけたこじんまりとしたスーパー(ファミリーショップコイズミ)で見かけた行列ができるラーメンくだき豚骨味の賞味期限は2009.12.10でした、そこには両手をぶらりとさせて大事なパーツが色々足りないゾンビの行列が見えました。もう十年近く信州大学の近辺で暮らしているけれど、こんなスーパーがあるなんて知らんかった、そもそもそのスーパーがある道を歩いたのが初めてのことだった。田舎の住宅街にあるような、欧米化に習って生まれた万屋の風味を残して生まれたスーパーが米化(アメリ化)に乗り遅れてしまっている、博物館に入館するような胸の高鳴りさえ感じてしまうような名も無き小型店舗。鶏肉のパックの消費期限は黒マジックで塗りつぶされ、冷凍されている。そういった行為もこの店舗が属しているコミュニティー単位では合法といったところと想像できる、僕も全て買う方の責任だと思っているので合法。巨大な海老芋、クジラ肉、大ぶりの塩サンマ、大きすぎて食べにくそうなナメタケ、松本一本ネギ、あずきや黒豆など各種の豆、氷もち(1000円)、見たこと無いグリコのアイス6個パック、野菜コーナーはその辺でおばあちゃんたちがやっている朝一のような感じで、市場から仕入れた物とその辺に生えているものが混在していてかなり理想的補完関係状態でテンションが上がってくる。まったく購買意欲を掻き立てない店内レイアウト(店の人は精一杯のレイアウトをしているのかもしれないが、冷蔵庫は雑然としているし、冷凍庫はなにやらよく解からない肉とかタラバガニの足とかカチカチの魚とかがぐちゃぐちゃに詰め込まれていてドアを開けたらくずれそうである)、それらはまるで購買者の力量を推し量っているようでとても良い。片隅には女性用の服が十数着ハンガーに掛けてあるが、誰にも触れられていないようでもやもやした感じが漂っている。この店が昔から、そのたたずまいや商品を見るに少なくとも僕が来た2001年より前からあることは確かで、その間に駅前の祝福されない飲食チェーンはほぼ入れ替わり、アップルランドさえ何店舗か潰れ、沢山の不味いラーメン屋が生まれては消え、お気に入りだった古着屋も無くなり、松本は寂しくなっていくのだが、ここ大村という午後三時に人っ子一人あるいていない地域で粛々と営業を続けるファミリーショップコイズミは一体何者なのだろう、100グラム500円のバカ高い干し芋を売る、賞味期限が切れそうなカップめんを売る営業時間がAM9時〜PM7時のこの店はなんなのだろう。猛烈な赤字を抱えながらも一種の宿命、業、として店の人は営業を続けているのだろうか。はたまた大金持ちの土地持ちが趣味でやっているのだろうか、だからクジラの肉があるのだろうか。大村地域の人に尋常じゃなく祝福されているのだろうか。このニッチ度は半端ではない。こういった何故経営が成り立っているのか解からないお店に興味津々な僕は非常に悪趣味で(なぜかというと特にこういうお店は若者がニヤニヤしたり余計なことを考えたりしてはいけない、禁止されているところだからである)暇な人間なのだが、こういう店舗を中心にしたコミュニティーが存在していて、それは店の物価や商品内容を鑑みるに、高齢の少しお金に余裕があってセイユーの298円弁当を買わなくても暮らしていけるような情報に乗り遅れている或は毒されていない人々の暮らしが見えてくるのである。孫のお菓子はここで買うし、正月の飾りも此処で買うし、でも孫は此処ではお菓子は買わずセイユーに行く。お店の人は僕に「いらっしゃいませ」と言ったが明らかに「何しにきよった」で、「ありがとうございます」には「はよかえれ」的なニュアンスが漂っていた。これは僕の妄想ではなく、本当にそうなのだと何の根拠もなく言ってしまう、世の中そんなもんでどこにでもたとえ金があろうが何か買おうが招かれざる客は存在する、聖域なしに人は暮らして行くことはできない。しかし、僕はこういうお店が存在そのものが好きなので、時々野菜を買いにいってあわよくばお店の人と話をしたいのである、ロックとは何かということについて。