越後妻有トリエンナーレ

新潟県十日町市び行ってきた。かんかん照りの一日で、田んぼの稲穂が輝いていていかにも米どころといった趣で良かった。上手に文章を書くのが困難なので印象を記録。

大地と形容するのが一番ふさわしいのか、家々に路上に原っぱに山に森に作品がちりばめられていた。今現在と強く結びついているものと、もっと遠くの時間を見つめているような常設作品がある。大地(展示エリアの面積)にたいして作品の密度は凄く低い。車がないと見て回るのは難しい。移動手段をどうするかもイベントからの問いかけかなと思う。全部見たから偉いとかはないし多くみればそれだけ感性が磨かれるわけでもない、初めの一つでたまたま凄く感動して家に帰っても全くもったいない話ではない、オブジェはなんの強要もしない、動的であっても情報的にはスタティックだ。物が置いてあるから来ちゃった、そういう通常訪れることの無いような里山に来た事実。また、稲が壁のように吊ってある道端や美味い湧き水やおばちゃんの漬けた茄子とアートがここでは高い親和性を持っている気がしてならなかった。アートと町、というのは良くある論点だけれど、町がアートに来てくださいとお願いしました、ではなく、アートが町に行って(居て)いいですかとお願いしました、そういう気楽さがあった。《中原佑介コスモロジー》で中原佑介の肉声がインストールされていたが、たしか「アートが町のなかでどう変容するのか、町と関係が持てるとしたらどの部分なのか」と言っていて、未だその答えは明確ではないし明確にはならないと思う。そういう意味で町が目的を持ちツールとしてアートを用いようとすることにいつも気を揉む。どうなるかは五分五分なのだ。町が栄えていようがいるまいが、なんらかなの形でアートはいつもそこにある。十日町市にあるキナーレの展示はびっくり系の作品が多くてイマイチだった。詩がないかんじ。中庭のボルタンスキーの《ノーマンランド》はでっかくて最高に良かった。廃校を利用した《最後の教室》もよかった。帰りに見えなかった物が見えた開放感とまだ何も見えていない人のモヤモヤがエントランスに漂っていた。